野球部の補欠部員と、スポーツビジネスの出会い
ーーまずは、葦原さんがスポーツビジネスに関心を持つきっかけを教えてください。
葦原 |
ちょうど僕が、中学3年生だった頃(1992年)ですね。ふと目にした週刊ベースボールに、アメリカで活躍するスポーツトレーナーの様子が紹介されていまして。選手にならなくても、スポーツの仕事が出来ることを、この時に初めて知ったんですよね。
まだ、野茂英雄投手がメジャーリーグで活躍する前でしたけど、「将来はアメリカに渡ってスポーツトレーナーになりたいな」と、当時は思っていたんですよ。結局、その道には進まなかったんですけどね(苦笑)。
(※野茂投手がロサンゼルス・ドジャースに入団するのは、1995年のことです)
僕自身も、高校までは野球をやっていましたけど、ほとんどが補欠でしたし、正直あまり上手くもなかった。なので、「ほぼスポーツをやっていない側の人間」と言っても差し支えないと思います。 |
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ーーその後、葦原さんは早稲田大学の理工学部に進学されました。一見すると意外なキャリアにも思えますが、学生時代の葦原さんとスポーツとの関わりを教えてください。
葦原 |
当初は、早稲田大学の人間科学部に進学し、スポーツの道に進もうと思っていたんですけど、残念ながら合格できなくて。理工学部に進学することになりました。まだ普及してばかりのインターネットで「スポーツビジネス」と検索して、出てきた方にメールでアプローチをしたりしながら、情報を調べていました。
そして「海外で色々なものを学びたい」という思いから、フランスにあるリヨン経営大学院に留学することになるんですけど、今になってみると、遊んでいたことも多かったかな(苦笑)。
ちょうど地元のサッカーチームのオリンピック・リヨンが、ディヴィジョン・アンで初優勝(2001-2002年シーズン)を手にした頃だったので、よくサッカー観戦に出掛けていましたよ。当時は、フランス代表も強かったですからね。留学は「学を留める(とめる)」とも書きますが、文字通りのような生活を送っていました(苦笑)。 |
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――大学院を修了された2003年には、外資コンサルティングファームのアーサー・D・リトル(ジャパン)にご入社されました。ご決断の理由や、当時のスポーツに対する想いをお聞かせ下さい。
葦原 |
既にスポーツ界で働かれている方々に相談したら、「どこかで経験を積んでから、スポーツ界に来た方が良い」と言われていたこともあって、あえてスポーツ以外の道を歩むことに決めたんですけど。
実は、最初に内定をいただいたということが一番の理由です。「良い縁なのかな」と思い、お世話になることに決めました。
入社したのは、いわゆる“戦略系ファーム”だったので、事業会社の経営戦略や、メーカーの技術戦略を担当していました。当初は、「自分の武器を作って、もし縁があればスポーツ界に行けたらいいかな」くらいの感覚でいたんですけど、実際に入社してみると、とにかくアットホームな社風で。居心地の良い環境で仕事をさせていただいていましたね。 |
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「軽いノリ」でまさかの合格 念願のスポーツ業界で見えたもの
ーースポーツ業界でのキャリアをスタートさせた経緯についてもお伺いさせてください。
葦原 |
入社5年目を迎えた頃、オリックス・バファローズが社長室のスタッフを募集していることを知りまして、宝くじを買うような軽いノリで受験したんですよ。でも、まさかの奇跡が起きて、内定をいただいてしまって…。本当に受かると思っていなかったので、受かってからはだいぶ悩みましたね。
当時の僕は29歳。ちょうど妻と結婚したタイミングで、関西に転勤しないといけない。妻も僕と同じく関東の出身だったので、最初は良い反応ではなかったんですけど…。でも、「挑戦するなら今しかないかな」という思いが込み上げてきて、スポーツ業界に足を踏み入れることに決めることにしたんです。
最初は子会社の平社員という立場でしたが、文化祭をやっているような感覚の日々は、楽しかったですよ。でも、実際にスポーツビジネスをやってみると、「感動」などの無形商材を販売している以外は、普通のビジネスと変わらないことがわかりまして。当初は“水商売”のようなイメージもあったので、少し意外に感じました。 |
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ーー横浜DeNAベイスターズへのご入社は、どのような経緯で決まったのでしょうか?
葦原 |
スタートして4年目を迎えて、メーカーとユーザーの声を繋いで新しいサービスを作っていくことも考えています。メーカーが良い商品を作っていても、コミュニケーションがうまくいっていない事例も目にしますし、逆にユーザー側からの「もっとこんな商品がほしい」という声も多く耳にします。 「そろそろ東京に戻ろうかな」と転職活動していた時に、ベイスターズの経営権を手にしたDeNAさんから声をかけていただいたんです。もう、二つ返事で決めましたよね。2012年1月に入社して、シーズンが開幕する3月末までにすべての準備を整えないといけなかった。ゼロから1を作り上げる楽しさは感じつつも、とにかく大変でしたよ。当時は、ほとんど寝ないで仕事をしていましたからね。 |
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葦原
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球団の経営を黒字化させるために、当時のパ・リーグ人気を向上させたナレッジを取り入れながら、根幹の改革を進めていくことを最も重視していました。 その意味では、最初の段階で、チケットやスポンサーに関する施策にメスを入れられたのは大きかったと思いますね。 |
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逆風はあって当たり前 仕掛けるための覚悟とこだわり
ーーその後はプロバスケットボールのBリーグに、第1号社員としてご入社されます。リーグ統合後の難しい舵取りを強いられたと思いますが、どのように課題を解決されたのでしょうか。
葦原 |
川淵三郎さんの手腕によって、2つに分裂したリーグが統一(※)された後、どのようにリーグを成長させるかに僕は力を注ぎました。 (※2005年から2016年までは、NBLとbjリーグという2つバスケットリーグが日本国内に存在しました) パ・リーグや横浜DeNAでの成功事例や、来場顧客のデータベースをリーグがの一括管理下に置く前例のないモデルも取り入れながら、組織作りを行いました。 |
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ーー葦原さんが考える「逆境を乗り越えるためのポイント」はありますか?
葦原 |
特に若い世代の方は、「ロジックで他人を動かそう」という方が多く見られますが、実際の現場では、ロジックと感情が混ざり合っているように感じますね。論理的に説明をしていくよりも、食事や飲み会で互いの交流を深めた方が、物事がスムーズに進むこともある。穏便に物事を進めていく方法を探すことも大切だと思います。 僕自身は、反対する人がいることが当たり前だと思っているんですよ。もし、スムーズに物事が進んでしまったとしたら、結局は小さなことしか出来ないですし、反対される度に萎えしまっていたら、なかなか物事は進んでいきませんからね。もう、感覚が麻痺しているのかなと思うこともあるんですけど(苦笑)。 |
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ーー葦原さんは、心が折れない「強さ」を持ち併せている方なのでしょうか?
葦原 |
中学や高校でも、集合写真の端にいるようなおとなしい存在でしたし、「強い人間」というわけではないと思います。もし、戦いに負けてその場所を離れることになってしまっても、「仕方ないか」と言うような覚悟があるからこそ、さまざまなことを仕掛けられるのかもしれませんね。 |
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ーー横浜DeNAやBリーグが、ビジネスモデルの成功例になり得た理由は、どの辺りにあると思いますか?
葦原 |
あえて言うなら、初期段階の組織作りで“極端なオタク”を入れないようにしたこと。これが明らかな違いですかね。
もし、スポーツがあまりに好きすぎてしまうと、これからファンになってくれる方の心情がわからないこともあるんですよ。あとは、学閥や人間関係のようなグループがないこと。これらの根幹を整えたら、新たなカルチャーを熟成させながら、目標に向かって「PDCA」を繰り返していくだけですね。
よく、「成功を掴むための王道はあるのか?」と聞かれることもあるんですけど、もしかしたらそれを探してしまっている時点で、その方は間違っているかもしれない。風土、組織を作り込みつつ、ビジネスの原則に沿って進めていけば、おのずと成功に近づくことは出来るんですよね。 |
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葦原 | 根本にある文化や組織が、一つにまとまっていく感覚があるんですよね。
僕が横浜DeNAに入社した時、代表の南場智子さんは「良質な非常識を作ろう」と僕らの前でお話されていましたし、僕がBリーグの設立に携わった時にも「BREAK THE BORDER」(ブレイクザボーダー)というキャッチコピーを掲げ、目標の達成に向けて取り組んでいきました。
日々のミーティングでも、キャッチコピーを確認しながら施策を考える場面が見られましたし、組織作りに果たした役割は大きかったと思いますね。 |
ーー葦原さんにとって“ブランディング”とは何でしょうか?
葦原 |
僕は、「江頭2:50さん」だと思っているんですよ(笑)。
Bリーグ時代には、スタッフに対して「1クールのレギュラーより、1回の伝説を作れ」とよく話していましたから。振り切った企画をやり切らないと“世界観”が作れないんですよね。
Bリーグの開幕前にも色々な施策を考えましたが、最終的には、LEDのコートで行う開幕戦の生中継だけに留めたんですよ。
僕らがどんなにPRを頑張ったとしても、思ったほどには相手に伝わらないことも多いので、徹底的に研ぎ澄まして、突き抜けた企画を考えようかなと思ったことが理由です。そういう意味では、江頭さんは偉大だなと(笑)。 |
ーー現在の葦原さんは、日本ハンドボールリーグの代表理事としてご活躍されています。2024年2月開幕のプロリーグ構想を発表されていますが、現状の手応えや課題については、どのように捉えていらっしゃいますか?
葦原 |
将来のプロ化に向けた制度設計に力を入れているので、企画については、まだ力を入れられていないような部分もあるのが実情ですが、先日のプレーオフでの会場の空気感は素晴らしかったですし、お客様の反応も良かった。「プロ化」構想など、さまざまな課題も残されていますが、前向きに進んでいるという確かな手応えを感じています。
現時点では、選手たちが十分に収益を得られるサスティナブルなモデル作りが大切なのかなと思っています。それが実現できたら選手の年俸を上げられますし、競技の普及や次世代の育成にも繋げられる。つまりは、リーグの好循環を生み出せるんですよね。多くの方が、競技の普及をさせた結果がメダル獲得につながり、その結果として収益につながると言うモデルを考えてしまうんですが…。稼げる仕組みを作ることが一番大切だと思っています。
「プロ化」が実現すれば、試合のレベルも上がりますし、将来的には若い世代の選手も集まるようになる。結果として、日本のハンドボールはどんどん強化されていくと思いますよ。まだまだこれからですよね。 |
※コロナウイルス感染拡大防止対策を施したうえでインタビューを行い、撮影時のみマスクを外しております。